奄美大島で裸になったら新しい自分に出会えました。

(以前は限定記事にしてたんですが、公開記事にしてみました。)

おおよそ自分の人生にそんなことが起るはずもないと思っていた、というか選択肢にすら1度も上がったことが無かったのですが、奄美大島でヌード撮影してきました。ㅤㅤㅤ 

ヌード撮影したこと自体は、自分なりに大きな気づきや影響があったものの、果たして人に伝えるほどのこでは無いのかもしれない…と思ってたんですが。ㅤㅤㅤ 

じゃあ、そもそも何のためにそんなことをしたのか?って考えたら、すごく大きな発見をしたのでやっぱり記事に書きました。ㅤㅤㅤ 

ずっと前からうすうす感じてた「なりたい自分になる」ことが、なんだかつまらなく感じる理由。ㅤㅤㅤ 

自分の前に新しい道筋が見えたら、自分の後ろにもスッと道が伸びる感じ。 ㅤㅤㅤ 

穴が開いていたりひび割れていたりした道が、でこぼこながらも合わさる感じ。ㅤㅤㅤ 

少しでも伝わったらいいなぁ…。ㅤ

ヌード撮影に至るまでㅤㅤ

4月に旅行で行った奄美大島でヌード撮影してきました。

ヌード撮影したのは私と、一緒に旅行に来ていたCちゃん、そしてこのヌード撮影をアテンドしてくださったもうYちゃん、そしてカメラマンのKさんの4人で行いました。

ちなみに、撮影してもらうことを決めたのは前日の夜!

自分の裸を撮影してもらうだなんて、どう考えても自分の人生に起こるはずの無いであろう出来事でした。
以前に起業仲間から「50歳の記念にヌード撮影するんです!」というお話を伺った時も「ひえー、すごいなぁ!でも、この人くらいナイスバディなら、そりゃあ絵になるだろうなぁ。自分はまずやらないけど。」と思ったほど。

だけど、夜にYちゃんと話をしていて、その日に自分のヌード撮影を終えたYちゃんの「ヌード撮影は外見に対する究極の自己承認」という一言が引っかかりました。

「外見に対する、自己承認…?」

さらにカメラマンのKさんは翌日お昼の飛行機で奄美を発つ予定だけど、午前中なら撮影できるかも?とのこと。既にYちゃんの「言葉」に絶大な信頼を置いていた私は、思わずYちゃんに伝えました。

「え…じゃあ、私もお願いてみてもいいかな?」

「撮りたい」と思ったわけではありません。Yちゃんの一言を聞いて「あ、私はヌードを撮ってみたら良いのかもしれない。」そう思ったのです。

こうして、私と周囲に推されて撮影を決めたCちゃんにYちゃんが付き添ってくれて、翌朝撮影することになりました。

ヌード撮影現場の原生林

撮影スタート

撮影場所は地元の人も知らない奄美大島の原生林(ガイドさんが教えてくれた極秘スポット)。
小さな滝というか沢のようになってて、滝つぼのように水が溜まっているところや、積み重なった岩の上、落ち葉だらけの道の真ん中。
もちろん着替える場所なんて無いので、そこいらの岩の上にパサパサと脱いだ服を置いただけで撮影はスタートしました。

最初、アテンドしてくれたYちゃんがお手本(?)を見せてくれて、何枚か撮ってもらうところをCちゃんとふたり、横から見ていました。

温泉で他人の裸を見ても特に何の感情も湧かないんですが、Yちゃん撮影風景を見ていて、ます衝撃をうけたんですよね「え…美しい…」って。

もちろん、すごくスタイルが良いというのもあるんですけど、そういう姿形の問題じゃないんです。すぐにKさんが撮った画像を(液晶で)見せてくれるんですが、その切りとられた一瞬の画像は、彼女の美しさを凝縮した「何か」に見えました。

これは、一体なんだろう?
自分も、こんな風に写真に写ることが可能なんだろうか?

不安なまま、疑心暗鬼なまま、今度は私がカメラの前に立ちました。

すると・・・

ぎこちない!!!
わらけるくらいぎこちない!!!

そうでした、私、ポージングとか「自分の世界に入る」みたいなことが本当に本当に苦手なんでした。

どうしようどうしよう…?
カメラマンさんも、特に何かを支持することもなく、任せてくださっているようです。

そんなときに、はたと思い出したのがたまたま前日参加した「原生林ツアー」での体験でした。

原生林でのふしぎな体験

ヌード撮影をする前の日、奄美に到着した初日のこと。

その日は夜まで特に予定も無かったので、奄美の自然に触れてみたいなと思い、たまたま目についたガイドさんの「原生林お散歩ツアー」を申し込みました。
後でわかったのですが、実は原生林の中で「音を感じる」ことに特化したツアーだったようで。

原生林に着くと突然、ガイドさんからツアーの趣旨を説明いただき、見たこともない打楽器を渡され「自分の心地よいと思うリズムや音色を見つけてみてください。」と伝えられました。

おずおずとその楽器を抱いて岩の上に座ってみたものの、最初はもちろん、戸惑いしかありません。
私は小学生の頃に少しピアノを習ったくらいで、基本的に楽器なんて弾けないんですよね。
音痴だしリズム感も無いし。音楽の授業が何より苦痛だったくらいです。

でも、その打楽器には楽譜も何もありませんでした。
正解なんて無い。だとしたら…

滝を流れる水の音を背景に、ぎこちないまま叩いていたらいつしかスッと心地よさのようなものを感じて、でもすぐにぎこちなさが戻り、でもまたふと心地よさを感じる。
 
しばらくそんなことを繰り返すうちに、ストンと腑に落ちたことがありました。

「あ、うまくやろうと思わなくていいんだ。自分だけの心地よさを見つけられたら、それでいいんだ。他の人がどう感じようと、自分にとっての心地よさは、自分だけのもの。
 ここで鳴らしている楽器は、誰に聞かせるわけでもない、自分のために鳴らしているんだから。」

その時は、まさか翌日自分が原生林でヌードになってるなんて夢にも思いませんでしたが、それと同じことが今まさに起こっている気がして。

「今自分が感じていることを身体で表してみればいいのかもしれない」

そう考えるとフッと楽になった気がして、まだぎこちなさは残るものの、自然と身体が動き始めました。

カメラの液晶に写った自分の姿

一通り撮り終わり、Kさんが見せてくれるデジカメの液晶を覗き込むと…そこには裸の自分が(当たり前)。

液晶の中にいる自分は
自分の姿は、自分であって自分では無いように思えました。

それは、とても不思議な感覚で。
客観的に見たら、「美しい」なんて形容してはいけないように思えるしぼんだ胸や浮き出たあばら骨、たるんだ顔が確かに「事実」として写っています。

それなのに、なぜか「美しい」と思えたんです。

「どうしてだろう…?」

そう思った次の瞬間に、答えはやってきました。
私の次に、カメラの前に立ったCちゃんの姿を見たときです。

それは本物の、美しさでした。
何も否定しようがないくらい、本物の美しさに包まれていました。

もちろん、服を着ている状態のCちゃんも美しい。だけど、服を纏わない彼女の美しさは、別次元のもののように感じました。

奄美の自然も、見ている人の心も、全て吸い込んでしまいそうなCちゃんが表現する姿は、原生林の中で文字通り発光しているように見えました。

そうして、気が付いたこと。


以前は、形態が整っていることや色の鮮やかさだったり華やかさが美しさの指標だと思ってたけど、美しさに指標なんて無かった。

顔の造作が整ってるとか、若くて肌に張りがあるとか、スタイルが良いとかじゃなく、その人がその人であることそのものに美しさがある。

指標が無いから、比較もできない。
美しさを測るものは、主観でしかない。

これまでは、外見を褒められても素直に受け取ることができなかった。
判断基準を「客観」に置くことを常とし、自分の外見に対しても当たり前のように客観的な指標を取り入れがちだったわたしに、奄美の自然と自分自身の身体が教えてくれた。

私の美しさは、誰とも比較する必要が無い私だけのもの。
自分が受け止めてあげないで一体誰が受け止めてくれるだろう?


女性なら誰もが憧れるであろう容姿で、内側からも外側からも個性が溢れているYちゃん。
陶器でできた人形のように白く滑らかなで、まるでヴィーナスのようなCちゃん。
年を重ね、子どもを2人生み育てた痕跡が確かに身体に刻まれている私。

骨張って「老い」を感じる自分の身体を「残念だ」と思う気持ちが全く無いわけじゃない。
だけど、そこには確実に「自分だけの美しさ」もあることを、認めることができましました。

圧倒的に美しい2人と一緒に撮影たからこそ、より腑に落ちたのだともいます。
美しさは比較じゃないということが。

胸がどうとか顔がどうとかじゃなく、「ただそこに存在することの美しさ」のようなものの存在と共に。

雨のそぼ降る原生林の中、ぎこちなく、でも不思議な心地よさを味わううちに撮影は終了。

カメラマンKさんとCちゃんはそのまま空港へ。もう1泊滞在する私とYちゃんは次の予定まで少し時間があったので、市内のホテルで温泉に入ることにしました。その日は朝から小雨が降っていて、寒さを感じるほどでは無かったもののやはり裸で数時間過ごしたことで身体は冷え切っていたのです。

湯船につかり、冷えて固まった身体がじんわりと温められ緩んでいくあの感覚…「ヌード撮影の後の温泉は格別だね!!」と、共感してくれる人はなかなかいないであろう感想を、Yちゃんと語り合いました。

「美しさ」に対する新しい認識によって、突然訪れた自己承認。
だけどそれは「ヌード撮影をしたから」という単純な理由だけでは無かったのかもしれません。

なぜなら翌日、奄美を発つ飛行機の中で撮影のことを振り返っていたら、子どもの頃のある出来事がふっとよみがえったから。

山田塾の思い出

小学生の頃、私の兄はいじめられっ子で、よく友達からからかわれたり物を取られたり、ちょっとした暴力みたいなものもありました。
そして、ほぼ年子の妹である私も、漏れなくそのとばっちりを受けました。

とにかく月謝が安いという理由もあり、地域のほとんどの子が通っていた寺子屋のような塾(山田塾といった)に、兄と通っていた頃のこと。
古い日本家屋広い畳部屋に長机が並んでいて、子どもたちは座って作文や計算のプリントをする。終わったら各自で正面に座っている河野先生のところに持って行き、赤鉛筆で丸を付けてもらうシステム(河野先生は山田先生の娘さん)。

その日も、私はいつもの通りサクッとプリントを終わらせて丸をもらい、踵を返して自分の席に戻ろうとしました。

すると、兄の同級生の一人が、明らかに不自然に通路に足を出しているのが見えたのです。席に戻る途中の私に蹴躓かせて転ばせるためだということはすぐにわかりました。

「本当に、いつもいつもくだらないいたずらを仕掛けてくるもんだ…」

気付かないふりをして歩き、出された足のところまでくるとわざと大きく跨いで、平然と席に座りました。

「転んでたまるか。転ばされてたまるか。こんな子たちのせいで、傷つきたくない。転ばされて泣くような、可愛い女の子になんか絶対ならない。」

憤りを抑えて懸命に平静を装い、鼻の奥がツンとして涙が滲みそうになったけど、悔しさには気づかなかったふりをしました。

反応せずに彼らに肩透かしをくらわせれば自分を守れると信じて、母親にも誰にも打ち明けることはしませんでした。

ある日「潤子ちゃんは本当にしっかりしてるし、何があっても毅然としているって、河野先生が話してたよ。」そう母から聞きました。

いじめっ子たちの素行は河野先生も知るところだったようで、平気なフリがバレていないことにホッとしたけれど、本当は少しだけ寂しかったことを覚えています。

こんなことが日常茶飯事だったこともあり当時の私は自分のことを「ぼく」と言っていました。
女の子らしく「わたし」と言うことは、こっぱずかしくてできないと思っていました。「生まれ変わったら男の子になりたい」と口にしたり、ふざけて「おちんちん」と下ネタワードをわざと口にし、下品な男の子みたいな自分でいることを選びました。
そのせいで「男女(おとこおんな)」と呼ばれたこともあったなぁ。

当時の自分は子どもなりに必死だったのだと思います。

見た目も性格も可愛らしい妹や、ちょっとしたことですぐに泣いてしまう親友の佳子ちゃん、彼女たちの女の子らしさに強烈に憧れながら、自分がそうなることは絶対に許せませんでした。可愛い女の子になることは、弱くて脆くて傷つきやすい自分になることだったから。

女の子らしさを抑え、男の子らしさを誇張することで、
在るものを無いようにし、無いものを在るようにすることで、
精一杯の防御を固めていたのかもしれない。

だけど、今でも覚えている当時の一番気に入りの洋服は、オレンジと黒のギンガムチェックにお花のアップリケのついたミニワンピース。

「ああ、私は本当はずっと、女の子らしくなりたかったんだ…」

飛行機の小さな窓から空を眺めて、少し泣きました。


なりたい自分になるよりも、知らない自分になる。

それで、こんだけ長々と書いてきてこんな事を言うのもなんなんですが、実は私がこの記事で書きたかったことって、ヌード撮影による外見の自己承認の話でも、幼いころのトラウマみたいな話でも無いんですね。

実は最近の自分は「10年後こんな風になっていたい」とか、誰かロールモデルみたいな人がいて「こんなふうに変わりたいからコレを頑張る。」みたいなのがすっかり無くなってしまっていて。

かといって無気力なわけでは無く、どちらかというとあらゆる欲求を手放せて無欲になった気分です。

無欲っていうのはやりたいことが全然無いっていうのではなくて、「やろうと思えば何でもできる」心からそう信じられること。
常に可能性や希望を抱けていること。

今の私はとても身軽で、何者でも無い自分自身のことを、この上なく心地よく感じています。
不思議なもので、ほんの数年前は自己啓発本を読んで、自分のなりたい未来像を設定し、現在の自分との「差分」を認識してそれを埋めていくための「努力」や「行動」を真面目にやっていたのにね。

でも、たとえば「月収〇〇万円!」とか、「数十人規模のセミナーで登壇できる人になる!」とか、わかりやすい目標を追うための行動を辞めたからこそ、変わるために行動することを辞めたからこそ、今の自分に出会えたと思っています。

じゃあ、何をやってきたか?というと、「どう変われるのか?」とか「そこに何の意味があるのか?」を考えずに行動すること。

たとえば、ひとりで旅行に行き、全く興味の無かった分野の美術館に入って見たり、たとえば4日くらいかけてメルマガを書いてみたり、たとえば数十年ぶりに漫画を60巻買って読んでみたり、たとえば原生林で打楽器を鳴らしたり、ヌードを撮影してもらったり。

思い返せばもっと過去の意志決定も「目標」があった一方で「実際どうなるかはわからないけれど」みたいな余白を持たせていたようにも思います。

最近特に思うのは、なんか「なりたい自分になるために行動する」とか、そもそも「自分の理想がある」っていうこと自体がつまんないなー、と。

だって、なりたい自分とか理想の自分ていうのは結局自分が想定できる枠内の自分だったりするので。

未来のその先になにがあるか?がわからないことこそ、やってみる価値があるんじゃないか?って思ってます。
だってその方が予測できないぶん、「知らなかった自分」に出会える可能性が高いから。

自分の想定の延長線上にある「変化」を感じるよりも、自分の知らなかった自分になる「進化」を感じる方が、私は好きだから。

「なりたい自分になる」も素敵な考え方だと思うし、場合によってはそちらを目指すこともあります。

だけど今の私は「知らない自分になる」のが、楽しくて仕方がありません。

正直、自分の裸の写真なんて撮影してもらったところで誰に見せることも無い(夫には見せました!)、プロフィール画像に使えるわけでもない(Facebook社からアカウント剥奪されちゃうね)、ヌード撮影の人生における「必要性」ということで言えば限りなくゼロに近いでしょう。

だけど、ヌード撮影したことで間違いなく「知らなかったもう一人の自分」に出会えたと思っています。

本当の「美しさ」の意味に気づいた自分

自分だけの美しさを受け入れられた自分

小さかったころ、こころの奥底に抱えていた「本当の願望」に気づいて、それを癒すことができた自分。

自分には目標にコミットするために守りを固める男性性も、柔らかく相手を受け入れる女性性も「両方ある」と思えた自分。

私にとって「知らなかったもう一人の自分に出会うこと=進化」です。

「明確な意味も目的も無い行動(あるいは挑戦)を通して知らなかった自分に出会う」そんな経験を何度か積み重ねるうちに、何かに出会ったとき「あ、コレってもしかしたら進化できる機会かも?」というフラグが立つようになりました。

たぶん、ヌード撮影もそうだったから意思決定できたのかな。

こういうのって、しばらくやってると感覚をつかめるようになります。
それまでは「夢中で挑戦しているうちに、なんだかわからないうちに進化してた」という感覚。
今は、「進化する自分を感じられている自分がいる」
そんな感覚。

進化するって、とても気持ち良いんです。
いつもは早起き苦手なのに、そういう時ってやたら朝早くスッキリ目が覚めたりする。そして、世界が違って見える。
だから私は、進化する感覚が大好きです。

「ヌード撮影なんて、そんな何の意味も無い事なんでやったの?」って聞かれたら「進化できる気がしたから。」って答えます。たぶんね。

最後に

進化のチャンスに気が付くには、もうひとつ方法があると思っています。それは、意味は考えないし、期待もしないけど「仮説」は立てること。
「これってもしかしたら私の大きな勘違いかもしれないけど。という一言。

「これってもしかしたら私の大きな勘違いかもしれないけど、数年後の私はばばーんと女性性が開花して、叶姉妹みたいになっているかもしれない!!」
みたいに。(勘違いは自由www)

何かに挑戦するとき、いつも自分のなかでこの言葉を唱えているかもしれません。だって、期待するのは怖いから。勘違いなら、大ハズレしても誰にも文句言われないし、自分も傷つかない。

私にとって「大きな勘違い」は人生最大の発明。
いつも、大きな勘違いがまだ見ぬもうひとりの自分に出会わせてくれると思っています。


おまけ

さすがにヌード写真はお見せ出来ないんですが、ちょっとだけ肌見せしちゃおうかな。

どどーん!!

原生林はブヨやら謎の虫がたくさんいるので、本当は虫よけスプレー必須なのですが、うっかりスプレー無しでヌード撮影に挑んでしまった私たち。
しかも奄美の虫は遅延性に反応を誘発するみたいで、奄美を離れて2,3日経ってから発赤と痒みが襲ってきました

もし奄美大島でヌード撮影するなら、虫よけ必須です!!!
 

最後まで読んでくださってありがとうございました!!。

これからも「日々の気づき」や「知らない自分になる体験」を、メルマガでお伝えしていきますね。

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